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ようこそ!土田城へ(18)織田信長の母・土田御前の回想

更新日:2014年9月9日

織田信長の母・土田御前の回想

 天正十年(1582年)六月、我が子・信長が珍しく濃姫を伴って上洛しました。その折、私は安土城で蘭丸の母君・妙向尼さまと、皆の帰りをお待ちしておりました。そこへ飛び込んでまいりましたのが「信長さまが蘭丸らとともに、本能寺で明智さまの刃に倒れた」との知らせです。残された私どもは、乱世の定めを恨み、泣き明かして、故郷や息子たちのことを思い起こしていました。
 美濃国可児郡の土田城は、祖父が築きました。私はその麓の館で生まれ、父は土田政久と申します。土田家は、古くから織田家と姻戚関係にありました。その縁あって、私は織田家当主・信秀さまの正室として迎えられたのです。婚礼の出立には、輿入れの道具を積んだ何隻もの船が、土田大脇の湊から木曽川を下って行きました。土田城の麓や湊の周辺には、私の大好きなスミレやカタクリが一面に咲き誇り、私を見送ってくれました。天文二年(1533年)の春のことでございます。
 翌年には信長を、次いで信行(信勝)を授かりました。信秀さまは、信長を那古屋城主に置き、私と信行を連れて尾張の古渡城へ移ってしまわれました。信長は嫡男として馬や弓、鉄砲、兵法などを厳しく教え込まれました。私がそばに居なかったからでしょうか、優しさに欠け「大うつけ」と呼ばれる乱暴な性格に育っていきました。それとは対照的に、信行は品行方正であると評判でした。
 殿の葬儀では、二人の振る舞いの差は歴然でしたが、殿のご遺志に従い、信長が家督を継ぐことになりました。後に兄弟の仲違いによって、信行が反旗を翻すも、成敗となってしまいました。
 その後も、信長は延暦寺や石山本願寺を攻めたて、妹のお市を嫁がせた浅井をも滅ぼしました。さらに、荒木村重が毛利へ寝返らないよう、荒木への人質として私を差し出そうとしました。しかし、母だからこそ分かるのですが、信長は決して私を憎んでいた訳ではありませんでした。
 四百年余が経った今、土田御前が毎日のように見上げた土田城は、自然の中に埋もれてしまいました。
 しかし、周辺には鳩吹山や名勝木曽川、可児川下流域公園のカタクリなど、御前が慣れ親しんだ往時の風物が、今もなお故郷の財産として残されています。

大河ドラマ「軍師官兵衛」で大谷直子さんが演じた『土田御前』。実は、土田城の姫君であったとの説が有力です。
そこで今回は、私なりに土田御前の回想録を想い描き、歴史ロマンに浸ってみました。
 可児市長 冨田成輝


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