更新日:2019年7月22日
―光秀。わしらは明日、ここで果てることになるだろう。だが、お前には未来がある。落ちのびて明智の家名を残してくれ。いつか、明智家を再興してほしい― 叔父の光安様が穏やかな顔でそういわれた。
私は明智光秀。今、私の生まれ育った明智城では、主だった一族・家臣による別れの酒宴が催されている。昨日来、城に攻め寄せた斎藤義龍殿の軍勢は、3千を超えるように思われた。今、明智城には数百人が籠城している。昼間の戦いではほとんど抵抗できないまま、多くの家臣の命を失ってしまった。衆寡敵すべくもなく、明日の落城は確実だろうから、この宴は死出の宴となる。
私は不肖の身であるが、曲がりなりにもこの明智城の城主だ。ここで城と運命を共にしなければ、死んでいった家臣たちにも申し訳が立たない。一族、家臣、領民の皆が私の宝だった。薄暗い灯火の向こうに溝尾、三宅、藤田、肥田、池田、可児、森といった家臣たちの顔が見える。
皆、明智家のためにここに集まってくれた。昼間の合戦では鬼のような形相をしていた歴戦の勇士たちの面貌は、いま静謐をたたえ、光安様と同じように穏やかだ。―死を覚悟した者たちの面貌は美しい。私はいま、どんな表情をしているだろう―
今年4月、長良川の合戦において、道三入道(斎藤道三)は義龍殿に討ち取られた。我が明智一族は、叔父の光安様の決断により、どちらの勢力にも属さず、動かなかった。そして昨日の合戦に至っている。
―此度のことの責任は、わしにある。わしが死ぬのは必然だが、お前には頼まねばならぬ大事がある。女や幼な子をここで死なせるわけにはいかない。お前は、皆を安全な場所まで導き、いつか一族が安心して暮らせる平和な世をつくるのだ。これは死ぬより難しいことだ。明智十兵衛光秀、頼む。生きて事をなしてくれ― 光安様の声に力がこもる。
しかし、私には一族の頭領たる責任がある。弱者を逃がす役目ならば、武勇に優れた秀満殿でもいいはずだ。叔父上、私は―。
―それに光秀。お前が死んだら、懐妊中の熙子殿(光秀の妻)はどうなるのだ。妻と子を守り通し、明智の家名をつなぐことこそお前の使命なのではないか―
妻の微笑みが脳裏に浮かぶ。私は先年、一族に連なる妻木氏(土岐妻木氏)から妻を娶った。頼りない私を陰から支えてくれる、私には勿体ない妻だ。彼女は今、身籠っており、来年には私にとって初の子が生まれるはずである。
一座の視線が私に集まる。明智荘はもはや明智一族の安住の地にはならないだろう。一族が、妻と子が、いや万民が笑顔で暮らせる場所などあるのだろうか。ないのであればどうすれば良いのだろうか。沈黙のときが流れた。
―叔父上、分かりました― ややあって私はそう答えた。この時、私は今日の宴のことを一生忘れないと誓った。光安様との約束を胸の内に秘めつつ。
―本稿は主に「美濃国諸旧記」を参考に構成した「私にとって」の明智光秀ストーリーです。10月号の続編もご期待ください。
可児市長 冨田成輝
添付ファイル
(戦火の中、明智城にてpdf 2761KB)