更新日:2015年10月29日
加藤源十郎景成と申します。今日は、祖父四郎景春や父五郎右衛門景豊から聞き及んでおります、我が加藤一族の大きな転機についてお話しいたします。
我が一族は、代々、尾張国で瀬戸物と呼ばれる陶器を独占的に焼いておりました。しかし、永禄の頃には、長く隆盛を極めてきた瀬戸の窯場の山は、焚木の伐採によって荒れ、業を続けるためには、どこかへ移転するほかない状態でした。我々は、尾張との境に程近い可児や土岐の山中に窯場を求め、美濃金山城主の森様を仲介に、信長様へ窯場移転の嘆願書をお出ししたのです。
それは信長様の元へ届き、評議が行われました。その頃の信長様は、延暦寺の焼き打ちや石山本願寺との戦などにおいて、ことごとく側近の進言を却下し、我が道を行かれておりました。信長様は、「物資の流通や管理、経済のためにも尾張の中で適地を探すべき」と仰せでした。しかし、側近の光秀様や森様の強い説得により、最終的にこの嘆願をお認めくださったのです。
信長様は、一族への条件を千利休殿と相談し、「ただし、今までの唐物の写しではなく、この国にしかない私好みの茶陶器を創れ」と強く釘を刺されました。我が一族は、信長様の御朱印状と御下命を抱え、天正の頃からそれぞれの土地へ移って行きました。
それからしばらくして、久々利大平へ移った父景豊や久尻で窯を開いた叔父景光らから、信長様の元へいくつもの茶陶器が届けられました。上品な黄肌にすっと立つ薄く華奢な鉢、どっしりと座り吸い込まれるような漆黒の茶碗。初めて目にする器の清楚と豪放の両極端に、信長様は大変ご満悦のご様子だったとのことです。
信長様がお亡くなりになった本能寺の変の後、最終的に久々利大萱へ落ち着いた私も、恐れながらも、利休殿の後に茶頭となられた古田織部殿の元へ、茶陶器をお届けいたしました。雪のように透き通る肌に、口縁がうねり凛々しく立つ茶碗。それまでの唐物の常識を完全に打ち破る姿に、織部殿も大喜びなされたようです。
空想シリーズ3回目となる今回は、加藤源十郎景成殿の口をお借りして、可児が美濃桃山陶の聖地となった由来について語ってみました。
可児市長 冨田成輝
添付ファイル