更新日:2019年10月1日
信長との出会いの後、京の明智邸にて
―永禄12年(1569)―
私は明智光秀。美濃国可児郡の産で土岐明智氏の当主だが、美濃国内の争いで所領と一族の多くを失い、一時は越前国 (現在の福井県)に身を寄せていた。今は公方様(足利義昭)にお仕えしている。いまだ軽輩の身だが、自分の屋敷に住むことができるだけでもありがたいものだ。
越前に居た頃は、ろくに家臣を養うこともできなかった。それどころか、妻の煕子にもつらい思いをさせてしまった。煕子が己の髪を売って、客をもてなす宴席の費用を工面してくれたことがあったが、その時には不覚にも涙が止まらなかったことを覚えている。煕子はそんな時でも微笑んでいた。今も昔も家族や家臣たちが私の宝であることに変わりはないが、煕子の笑顔は何物にもかえがたい。そんな彼女の顔が曇るのは決まって戦のときだ。
―お役目とはいえ、戦はつらいものですね。せめてご無事でお帰りください―
私は去る正月5日、京六条の本圀寺に攻め寄せた三好勢から、公方様をお護りして戦った(本圀寺の変)。この戦いは必死の防戦となったが、私はやや奥に陣取り、寄せ手の指揮官だけを狙って鉄砲を放っていった。次々と指揮官だけが倒れていく様に寄せ手は混乱し、時間を稼ぐことができた。我々だけでは危ういところであったが、あの男の援軍が到着したことで形勢は逆転し、公方様をお護りすることができた。
あの男、織田弾正忠信長。帰蝶(濃姫)が嫁いだ頃は「尾張のうつけ」と呼ばれていた。そんな男に帰蝶を差し出すなど、道三入道(斎藤道三)も酷いことをされる、と当時は恨みに思ったものだ。あの男はその後、織田家の当主となり尾張国を平定した。さらに驚いたのは、桶狭間で今川治部大輔(義元)殿を討ち取ったことだ。このことは「織田信長」の名を世に知らしめ、今やあの男を「うつけ」と呼ぶ者などいない。
不思議なことに、あの男は私が失ったものを、逆に我がものとしていった。帰蝶を妻とし、私が去った後の美濃国も今や織田の領国となっている。それが羨ましくないといえば嘘になるが、妙な親近感を覚えるのも確かだ。道三入道との縁がある上に、私と同じように早くから鉄砲に目をつけており、信長自身も結構な腕前らしい。また、政では旧態を打ち破ろうとしている。
先年、足利義昭公が公方になられたことも、この男の力が無ければ実現しなかっただろう。遥か先を歩んでいる、もう一人の私がいるようにも思えてくる。
本圀寺の防戦の後、岐阜から救援に駆け付けた信長から、直接ねぎらいの言葉をかけられた。
―明智十兵衛、であるか。此度の働き見事であった。鉄砲をよく遣ったというが、慧眼なり―
「もったいないお言葉でございます」と答えながら私は、乱世を終わらせるのは、あるいはこんな男なのかも知れない、と感じていた。
本稿は「私にとって」の明智光秀ストーリーです。12月号の続編もご期待ください。
「月さびよ 明智が妻の 咄せむ」
貧しいなかでも一心に夫を支えた光秀の妻のエピソードを踏まえて、俳聖・松尾芭蕉が詠んだ句です。
―冴え冴えとした月明かりのもとで、月のように優しく光秀を照らした妻について、さあ語ろうか―
大胆に解釈すれば、このようにも読めます。控えめながら、その芯には強く凛々しいものを秘めた女性像が想起され、心温まるものがありますね。
可児市長 冨田成輝
添付ファイル
信長との出会いの後、京の明智邸にて (pdf 3767KB)