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ようこそ!市長室へ(82)銅鐸幻想

更新日:2020年12月1日

 

 「可児市を代表する古代の遺物は何でしょう」と尋ねられたら、皆さんは何と答えますか? 可児市にとってはどれも大切な文化財ですが、可児郷土歴史館に展示されている「久々利銅鐸」は間違いなく候補にあがると思います。
 久々利銅鐸は国内十指に入る大きさで、岐阜県内で見つかった銅鐸の中では突出して大きいものです。一部が破損しているため、本来の高さは不明ですが、現在の高さは約1・11mで、滋賀県野洲市で出土した日本最大とされる大岩山銅鐸(国宝、高さ約1・34m)には及ばないものの、高さが1mを超える銅鐸は数少なく、「日本最大級」の銅鐸といえます。銅鐸は弥生時代特有の遺物で、ベルのような形をしています。初期は小型のものが多く、まさにベルのように鳴らして使用していたと考えられています。しかし、久々利銅鐸はベルのように使用するには巨大過ぎて、打ち鳴らされた痕跡も見当たりません。儀礼的・象徴的な祭器ではないかと推定されますが、その用途についてはいまだ謎に包まれています。
銅鐸の大きさは、その地域を治める勢力の規模に比例すると思われます。久々利銅鐸ほどの大きさともなると、「クニ」規模の勢力の存在、それもかなり大きな「クニ」の存在が想定できます。久々利銅鐸は弥生時代後期、今から約二千年前(一世紀)のものですが、可児市内にそのような大きな勢力があったとも考えられます。ワクワクしますね。
 久々利銅鐸は、江戸時代に久々利の集落から1km程西の丘陵地で発見されたということです。久々利といえば、『日本書記』に記された景行天皇行幸の地、泳宮ロマンスの地でもあります(三世紀頃か?)。そして、飛鳥時代に朝廷にお米を献上した地であることを記した木簡が、飛鳥池遺跡から出土しています(西暦677年)。さらに、桃山時代に京都と直結し、国宝の志野茶碗を生み出した美濃桃山陶の聖地の場所。そんな「ククリ」は、遥か昔、弥生時代からすでに「クニ」のような規模の集落でした。その勢力は何百年も絶えることなく、古代ロマンスの地へと、そして日本を代表する芸術の地へと引き継がれたのです。
 久々利銅鐸は、風格を漂わせる堂々たる姿で、今の時代に生きる私たちに、可児の壮大な歴史ロマンを語り掛けてくれます。

 

 可児市長 冨田成輝

添付ファイル

 銅鐸幻想(pdf 298KB)