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ようこそ!市長室へ(78)関ケ原の戦い直前の大坂にて― 慶長5年(1600)7月某日 ―

更新日:2020年7月31日

 ―はい。父は誇り高き、まことの武士にございました。世間では逆臣と呼ぶ者もおりますが、言いたい者には言わせておけばいいことです。私にとって、花も実もある武士とは、父上のような御方を置いてほかにはありません―
 私は明智玉子。洗礼名は、ガラシャと申します。父・光秀は、美濃の名族であった土岐明智氏の頭首で、美濃国明智荘に代々の居城を持っていました。私は、父が美濃国内の争乱で城を失い、寄る辺なく放浪していた頃、起居していた越前にて生を受けました。当時の明智家は困窮の極みにあり、母が自身の黒髪を売って生活の足しにしたほどでした。しかし、貧しくとも世俗に染まることのない、不思議な美しさが母には備わっておりました。私は、幼心に「何故母はこれほど美しいのか」と疑問に思っておりました。最近になって、我が子への愛と、いかなる時にも誇りを失わない姿勢が、その美しさの源泉であったことに気付きました。貧しくとも幸せだった家族との日々、母の愛と明智家の娘としての誇りは『桔梗紋物語』として私の胸の内に生きています。
 今、私たちの居る大坂の細川屋敷は、治部少輔殿(石田三成)の軍勢に囲まれています。夫(細川忠興)は内府様(徳川家康)の元に出陣しており、救いの手は期待できません。治部殿は大人しく人質となるならば、命までは取らないと申している様子ですが、私が『決意』を固めねばならないときが来たようです。
 思えば父・光秀も、去る天正10年(1582)5月の愛宕山の連歌会で「時は今 あめが下なる(下しる) 五月哉」の発句を詠み、『決意』を固めたのではないでしょうか。父が信長公をご生害奉ったのは事実ですが、そこには明智一族として、武士としての誇りがあり、並々ならぬ決意があったものと私は信じています。
 我が明智一族は代々、武士の名に恥じぬ振る舞いを致してきました。大叔父の光安様は、父を逃がすために明智城を枕に討ち死になされましたし、姉が嫁いだ左馬助殿(明智秀満)は、本能寺での一件の後、姉と共に坂本城で堂々と果てられました。私も明智一族の血、誇り高い父母の血を継ぐ者です。女だからとて易々と治部殿の軍門に降り、一時の命を拾うことがありましょうや。

 ―散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ―

 これが私の『決意』です。この一首を辞世としてくださりませ。人も花もしかるべき「時」に散るからこそ美しいものです。汝もそうは思いませぬか?

 今回は、内田青虹氏の『桔梗紋物語』『決意』(明智光秀博覧会2020in可児市にて展示中)にインスピレーションを受けて書き起こした明智玉子(細川ガラシャ)の物語です。

 可児市長 冨田成輝

添付ファイル

関ケ原の戦い直前の大坂にて(pdf 802KB)