更新日:2019年11月29日
―なんと!上様を討つ、と仰せられましたか。それはまことですか― 左馬之助(明智秀満)が周囲に漏れ聞こえないよう、低い驚愕の声をあげた。この場に集まった斎藤利三、藤田伝吾、溝尾庄兵衛らも顔を見合わせている。
私は惟任日向守光秀。前右府信長の家臣として、この十年ばかり戦に明け暮れてきた。今、私は本当に信用できる者たちに決意を打ち明けたところだ。軍勢を京へ向かわせ、本能寺を宿所としている信長を討ち、畿内を押さえるつもりだと。
信長に仕えはじめた頃、私は充実していた。当初、あの男の理想と私の理想は驚くほど重なっていた。信長を、まるでもう一人の私であるかのように感じたからこそ、織田家に敵対する多くの者たちを屠ってきた。信長と歩んでいれば、いつかは平和な世の中が実現するのではないかと夢見ていた。そんな私が、目が覚める思いをふと感じたのは、去る天正4年(1576)、最愛の妻・煕子を失った時だった。
煕子の最期の言葉はこうだった。―戦続きの毎日でしたが、煕子は本当に幸せでした。心残りがあるとすれば、貴方や子どもたちと一緒に、戦のない世を見ることが出来なかったことでしょうか。そのような世で私は、ただひっそり貴方と暮らしていきたかったのです―
私はいつの間にか、終わることのない修羅の道に迷い込んでいたのではないか。平和な世を創るため、戦を繰り返す。何たる矛盾であろうか。織田信長は、日の本全てを平らげるまで戦を止めないだろうが、その道のりは遠い。武で蹂躙せずとも、天下を平穏にする方法はあるのではないか。
―皆聞いてくれ。私には、恨みも野心もないのだ。ただ、あの男の元には平和の徴である麒麟は来ない。そう感じたのだよ。私につらなる人たちに、ただ平穏に暮らしてもらいたい。それだけが望みだ。信長を討ち畿内を押さえ、これ以上の戦線拡大を防ぎ、周囲との均衡を保つ方策を考えたい―
しばしの沈黙の後、左馬之助が応える。―殿と我々は一心同体ですぞ。今更何をいいましょうか。志を遂げられよ―我が腹心も皆頷いている。ありがとう。心を許せる臣下を持てたことに感謝しよう。
そう、思い出した。私は惟任日向守光秀ではない。私は“明智”光秀。土岐明智氏の頭領であり、美濃国可児郡の所領を失って以降、一族の安住の地と平和な世を求めてきた男だ。
さて、行くか。本能寺へ。「敵は本能寺」などと言うつもりもない。敵ではなく、過去にもう一人の私であった男が本能寺に居る。自身が麒麟に相応しい者であるかは分からない。だが、私が何者であるかを知るためにも、彼の者を討ち、前に進まねばならないのだ。
時は今。
市長空想シリーズ「明智光秀」全四話 完
可児市長 冨田成輝
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