更新日:2013年7月31日
「信長様と蘭丸の思い出」 語り 妙向尼(森蘭丸の母)
妙向尼でございます。今丁度、信長様がこの金山城にお越しになった日のことを偲んでおりました。
天正十年(1582年)三月九日、信長様は我が子蘭丸らを案内人に、森家の城・金山城へお越しになりました。近江に壮大な安土城を築かれ、そのご威光を天下に知らしめてからまだ程ない頃です。木曽川を上った船が城下の川湊に着くと、町人へのお土産としてたくさんの積み荷が降ろされ、城下はお祭り騒ぎとなりました。
信長様は蘭丸の功に報い、安土城を真似た城の建設をお許しになりました。金山城の本丸では、信長様からいただいた金銀、屋根瓦や材木を使い、多くの職人が天守や御殿、櫓や土塀、そして高石垣を完成させたばかりでした。金山城は絢爛に生まれ変わりました。その日は、亡き夫・可成の菩提を弔うため、金山城本丸の新築祝いも兼ねてお越しになられたのです。
この戦国の世にあって、金山城は一度も攻められず、森家は、今や東濃一帯を手中に収めようとしています。信長様は、誠に縁起のよい城だと気に入られ、二層の天守の屋根には、何と安土城と同じ金箔瓦まで上げてくださりました。
信長様のご接待は、城下を挙げて海の幸、川の幸、山の幸、古今東西のあらゆる珍味が揃えられ、数日間続きました。百五十畳もある本丸御殿の大広間や茶室では、その道具仕立ても、久々利で焼かれた一級の茶陶器や唐物の名品などを用い、贅を尽くしたものでした。
信長様は、宴の合間に蘭丸と私をお誘いになり、城の近辺を散策されました。そして、苔生す大岩にどっかりと腰を据えられ、こうつぶやかれました。「転石苔を生さずじゃ」と。信長様は、「古い慣習や伝統にとらわれず、日々の変化に対応して工夫を凝らし、世の中を変えていかなければ皆が幸せになれない」と、おっしゃりたかったのではないでしょうか。
それから三か月後の天正十年六月二日、信長様は我が子蘭丸らとともに、本能寺で討ち死にされました。そのご遺訓は、今でも私どもの心に深く刻まれています。
「変革への勇気」は、現代の可児市政にも引き継いでいかねばなりません。美濃金山城跡に立ち、眼下に流れる木曽川や周辺の諸城など、当時の壮大な景色に思いを馳せる時、四百年の時を超えて、本物の歴史が語り掛けてくれます。
「ようこそ!市長室へ」も夏休み。「美濃金山城」への思いを妙向尼様の口をお借りして、語ってみました。私の勝手な空想物語です。
可児市長 冨田成輝
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