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森 武蔵の首

更新日:2013年12月4日

 兼山城主森武蔵(長可)は、信長の死後、秀吉に味方して小牧、長久手の戦いに加わったものの、流弾が眉間に当たり、天正十二年(1584年)四月九日、27才で果てました。
 家臣達は遺体を居城兼山に運んで手厚く葬ろうと決意しました。
 しかし、長久手から北へ向かうには、敵の大将家康の本陣のある小牧の下を通らねばなりません。この難関を突破するため、遺体の胴と首を分けてまず胴を埋め、首を大切に抱いて、犬山から石原土田へ間道を抜けようとしました。
 ところが土田城主生駒氏は、前年に自分の城を焼いた森武蔵の遺体がここを通るにちがいないので、それを横取りして家康に差し出そうと、待ち伏せしました。
 遺体は木曽川手前の土田の刎橋(はねはし)の見える所までやってきました。遥か東方に兼山城も見えます。
 その時、見張りが飛んで来て刎橋(はねはし)に敵の一団がいるために通れないことを知らせました。刎橋とは、必要以外は網で吊り上げて通れぬように考えた橋です。
 小牧山の難関は、胴を捨てて首だけにすることによって通れましたが、刎橋を落とされては、兼山へ帰ることは不可能です。
 そこで涙をのんで石原の真禅寺に戻り、主君武蔵の首を裏山に丁重に葬りました。
 森武蔵の死後、武蔵が出陣前に書き残した遺言状がみつかり、それには「武士はいや、吾が跡目くれぐれもいやにて候…」と書いてありました。
 そこで妻は次の城主を末弟忠政に譲り、自らは二児を連れ、真禅寺のある石原に移り住んだということです。