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兼山橋・下渡橋の変遷

更新日:2024年3月12日
兼 山 橋

第一次兼山橋【本町】

 木曽川沿いに街並みがある兼山と、川向こうの八百津町和知、可児、可茂との行き来は明治時代に橋が架けられる前までは、渡し舟で人や品物を乗せて渡っていました。兼山には、2ヶ所の渡し場がありました。明治時代になって人の行き来が自由になり、商業の町兼山への顧客の増加と物流の効率化を計り、さらなる発展を目的に兼山の有志者達によって発議され、第一次兼山橋が架橋されました。明治24年に兼山の有志者達が出資をし、同年9月に完成しました。本町に架けられ、人や馬車が通れる木造の橋で、通行料をとっていました。この橋は木曽川に架橋された最初の橋で、兼山が東濃における商業の中心地として一層繁栄しました。

兼山橋

第二次兼山橋【本町】

 明治40年、第一次兼山橋の老朽化が進み同場所にて架け替え工事が行われました。工事費用は有志者の出資で賄われ、この橋も通行料を取っていました。

兼山橋

第三次兼山橋【魚屋町】

 大正12年の頃になると、自動車が通れる橋が必要となってきました。交通量の増加と橋に続く付帯道路の地形が不便であったため、上流の魚屋町に架けられました。岐阜県初の鉄骨つり橋で、県の直轄事業として行われ、長さ87m、幅4mの鉄骨つり橋が完成しました。通行料は無料となり、自動車、トラック、バスなども通行できるようになりました。この橋の橋名プレートと、使われていたワイヤーが現在「戦国山城ミュージアム」の前庭に記念展示されています。

兼山橋兼山橋

第四次兼山橋(現在の橋)【魚屋町】

 第三次兼山橋は、幾度となく橋板の取り替え修繕をしていましたが、全体の老朽化と交通量に対しての耐荷重が不足してきたため、また新しい橋を造ることになりました。新橋の位置は、第三次兼山橋の上流で兼山ダムとの中間に架橋されました。昭和42年11月に長さ94m、幅6mの鉄筋コンクリート製の橋が完成しました。

兼山橋

 

下 渡 橋

第一次下渡橋

 兼山の上流に鉄骨架橋が完成しましたが、下流域の人たちは、依然として下渡の渡し舟を利用し大変不便でした。当時宮町に芝居小屋「末広座」があり、その観客や買い物客の利便性を良くするために、大正14年9月に、兼山湊から200m程上流に長さ69m、幅2mの人だけが通行できる人道橋(つり橋)が架けられました。現在もつり橋のコンクリート製主塔が残っています。こうして、室町時代から続いた長い歴史「下渡の渡し舟」はその姿を消すこととなりました。 

下渡橋

    ↑旧下渡橋 主塔

第二次下渡橋(現在の橋)

 昭和51年12月、車社会に対応し、第四次兼山橋に劣らぬ鉄筋コンクリート製の橋「新下渡橋」が架橋されました。

下渡橋