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可成寺【宮町】

更新日:2024年3月12日

森 蘭丸

 美濃金山城主の父 森可成、母 林常照女(妙向尼)の三男に生まれた蘭丸は、13歳で戦国大名の織田信長に小姓(身の回りの世話や警護を担う役目)として仕えはじめました。蘭丸は、こまやかな心配りと確かな判断力を発揮して信長に信頼されます。そして18歳で6万石の城持ち大名にのしあがりますが、その直後に京都本能寺の変において、信長、弟の坊丸、力丸と共に討ち死にをしました。そのことから、毎年蘭丸の命日(1582年6月2日)にちなんで、蘭丸祭(供養祭)の法要を可成寺で行っています。

可成寺

         ↑可成寺山門 蘭丸供養祭

可成寺

 元亀元年(1569年)琵琶湖西岸宇佐山城で、浅井、朝倉連合軍との戦いで討ち死にした父森可成と、手筒山で朝倉との戦いで戦死した兄森可隆の菩提を弔うために次男の長可(2代目城主)により元亀2年に創建されました。創建時は、古城山寺ヶ峰山頂にありましたが、慶長5年(1600年)に4代目城主森忠政が、川中島(長野市)に転封された時に現在地に移転しました。

森家の墓地

 可成寺の本堂には、可成、長可、蘭丸、坊丸、力丸の位牌があります。揚げられている家紋は、森氏の家紋鶴丸、秀吉から許された五七の桐、さらに桔梗紋です。桔梗は土岐氏の家紋で一時期土岐氏に仕えていたと言われています。裏山には、森家の墓地があり、金山城主1代目可成、2代目長可、3代目蘭丸そして坊丸、力丸の供養塔があります。さらに、蘭丸の祖父可行、長男可隆の墓石もあります。

 4代目城主忠政は生き残り、川中島(長野市)に転封後、さらに岡山県津山市の大名となり、津山市にお墓があります。その縁をもとに、平成7年に兼山町と津山市が歴史友好都市となりました。

 蘭丸、坊丸、力丸の供養塔は元々、八百津町伊岐津志「せんぼどう」にありましたが、昭和42年にこの地(可成寺)に移されました。本能寺で散った三兄弟の母である妙向尼が、千本の卒塔婆(そとうば)を立てて供養した地と言われています。そのことから、今でも「せんぼどう」と言う地名で呼ばれています。

供養塔

       ↑三兄弟の供養塔 左から坊丸、蘭丸、力丸