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兼山(金山)湊跡【下町】

更新日:2024年3月12日

兼山湊とは?

 湊跡は、岐阜県指定史跡に指定されています。かつて湊には多くの舟が往来し、室町時代には木曽川上流の始発湊で、戦国時代には金山城主森氏の政治的、軍事的な要衝ともなっていました。河運を利用し商圏を信州や伊勢方面にまで広げ、兼山商人の名を轟かせていました。兼山周辺は蚕糸業を主産業としており、そこから呉服産業や、兼山の立地が天然氷の製造に適していたので、氷も卸していました。江戸時代に入っても重要な木曽川上流最終荷揚げ湊の役割を果たしていました。

城下町兼山の繁栄をもたらした兼山湊

 室町時代末期、斎藤正義が烏峰城を築いた時代(1537年)には既に河川交通運搬があったとされています。築城に伴い、下流の笠松や犬山から舟で物資を運び、上流最終の荷揚げ湊とされていました。兼山湊船問屋由緒記によると永禄11年(1568年)に織田信長が京都に入る際に、多数の建築資材を木曽谷から中山道を運び、兼山湊から船積みした記録があります。

 永禄8年(1565年)森氏の入城後、二代目城主森長可により経済基盤を固めるため、金山城を中心とした城下町造り(今で言う都市整備)を行いました。城下町にあらゆる商品を扱う商店街を整備し、月6回の市場「六斎市」を開催させ、上流や下流からの物資を湊に集積させました。特に下流から運ばれる塩と海魚は、魚屋町に専売権を与え、城下町発展に大きな影響を及ぼしました。こうした政策により、森家の財政を支え、金山城の増改築にも大きく寄与したと考えられ、以後の兼山繁栄の基礎を築きました。

兼山湊

時代の移り変わりと湊

 江戸時代末期になると交通の便に恵まれていた下流域の新村湊(伏見宿)、野市場湊(今渡)の利用が増加していき、権益を巡り激しい抗争が続けられました。塩の専売権や市の賑わいも黒瀬湊、錦織湊(八百津町)へと次第に移っていき、兼山湊は徐々に衰退していきました。

 大正時代から昭和時代初頭にかけてダム建設、鉄道、橋などの陸運整備により湊の賑わいは消えていきました。そして昭和30年代には木曽川中流域が国定公園となり、兼山の観光事業として、湊から兼山ダム下までの兼山瀞峡流域の川岸の環境を整備し、兼山湊は貸しボートの湊となり多くの観光客を迎えた時代もありました。また、夏は子ども達が水泳をしたり、川釣りを楽しむ姿も見受けられました。今は、川面から石畳と舟に湊の位置を知らせる常夜灯が昔の繁栄を偲ばせています。

兼山湊

水神神社

 湊のすぐそばには水運の安全を祈願して水神神社が、隣接する春吉稲荷神社とともに祀られており、今でも下町の人達が毎年夏祭りをされています。

兼山湊