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兼山小学校

更新日:2024年3月12日

兼山小学校の歴史:明治5年(1872年)~大正時代

 他の町村に先駆けて兼山に初めて学校が造られました。これを一貫社と言い、お寺や神社の拝殿を使い開いていました。生徒は60名程で先生は2人でした。翌年、名前が一貫義校となり、生徒、先生の人数も増えてきましたが、義務教育ではなかったので、学校に行かない子もいました。明治12年に教育令が公布(学校の決まりを新しくした)され、「兼山小学校」と名を改めました。生徒数も多くなり、常盤町に本校をおき、本町に分校をおきました。明治18年に校舎が新築され(後の役場となり現在の戦国山城ミュージアム)3階建ての立派な校舎で、他の町村からも見学者が来ていました。校舎は、表面は2階建て、裏面は3階建てになっており、掛け造りという造りで造られました。この頃の生徒数は150人ほどでした。

 明治26年に新小学校令が公布され、国の学校制度が変わったため、兼山尋常高等小学校となりました。尋常科は4年生まで、高等科は3年生までとなっていました。明治40年には義務教育が6年となり、尋常科が6年生までとなりました。大正10年頃は、生徒数も241人となり教室が不足し、常盤座という劇場を仮教室としていました。

兼山小学校ミュージアム

兼山小学校の歴史:昭和7年(1932年)~昭和時代

 現在の地区センターの位置に2階建てのスレートの立派な校舎が新築されました。昭和16年には、太平洋戦争がはじまり、学校の名前も「兼山国民学校」となり、学業よりも、農業の時間が増えサツマイモを運動場に作り、体操と武道は毎日あり厳しいものでした。昭和22年終戦直後、連合軍司令部の指令により、戦時教育は除かれ民主的教育の確立がなされ、小学校6年、中学校3年の六三制義務教育となりました。名前も「兼山町立兼山小学校」と改められました。この時、中学校もできましたが、昭和23年に伏見と兼山が一緒になり組合立となり「共和中学校」になりました。 

 この頃、給食の前提ミルク給食が始まりました。昭和30年には給食室ができ完全給食となりました。昭和36年にはプール、昭和45年には校歌ができ、昭和47年にはカラーテレビが設置され、兼山小学校ができて100年を迎えました。昭和56年に老朽化した旧校舎から現在の位置に兼山小学校の新校舎が建てられました。

兼山小学校兼山小学校

兼山小学校の歴史:平成17年(2005年)~現在

 昭和35年に鼓笛隊が誕生し、昭和55年にトランペット鼓笛隊になりました。そして平成17年に「マーチングバンド蘭丸」となり、平成30年に、小学4年生から6年生で結成される「金管バンド蘭丸」ができました。県大会では金賞をとり、各イベントにも多数参加し地域に愛される兼山小学校伝統のバンドとなっています。現在は、地区センターまつりや、地域の行事、地域の方を招き定期演奏会などを開催し活躍しています。

金管バンド

↑「金管バンド蘭丸」令和5年度地区センターまつりでの演奏

兼山少年消防隊

 昭和の時代、兼山小学校に「兼山小学校少年消防隊」があり、隊員は5、6年生の男子で構成されていました。腕用ポンプを使った放水訓練や夜警(夜回り)などの防火活動を行っていました。その活動は、他の模範として県知事や消防協会などから十数回表彰を受けていました。

兼山消防

     ↑ポンプ車と隊員の集合写真

小学校児童数の推移

 近年、減少の一途をたどっています。地区民の減少と少子化が現れています。戦時中昭和20年代には疎開児童で増加したものと考えられますが、435人の在籍がありました。現在は少人数校の特色を生かした授業や、異学年交流授業などを行っています。また、小規模特任学校として地区外からの児童の受け入れをし、微増の傾向にあり期待されています。

児童数