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土田のあれこれ

更新日:2015年3月5日

土田城と生駒氏                              (可児町史・可児市史より)

 土田城は、文明年間(1469から1487)頃に土田氏によって築かれたようで、弘治2年(1556)土田
源太夫が明智城において討死した後は、丹羽郡小折城(愛知県江南市)の生駒氏の養子となっていた親重、親正が
城主となる。親正は織田信長に仕え、天正2年(1574)には土田城を去るが、後には秀吉に仕え、各地を転戦
し、天正15年(1587)には讃岐丸亀城主となる。
 城は、可児川が木曽川に合流する地点より約1キロメートル上流の左岸、標高181メートルで、東の平坦地と
の比高差110メートルの一つの独立丘にあって、東は可児川が流れ、西と北は山座川とその支流が流れ、南は比
高差約20メートルの鞍部を越えて山並みが続き、中切川が矢戸川と合流して流れる、天然の要害であった。
 城主以下家臣らの屋敷は、北の大脇におかれ、とくに城主の屋敷は北端で可児川が木曽川と合流する断崖上に構
えられていたという。土田城は、比較的小規模なものであり、あくまでも「詰城」として構えられた山城で、合戦
となれば居館の背後に構えられた城に立て籠もったものと考えられる。
 城跡には、中世の城郭に見られる土居などの遺構が残されているにすぎない。東への展望はよく、可児盆地をほ
ゞ一望できる。西は犬山山塊の東端の最高峰鳩吹山で、その間に東山道が通っている。

止善殿と土田宿本陣                                 (可児市史より)

 徳川家康は鷹狩りや上洛の際に特別に宿泊施設を設けてこれを御殿・御茶屋と呼び、また徳川義直も領内の街道
沿いや鷹場付近などに多くの御殿を設けている。土田宿は名古屋からちょうど一日の行程にあり、木曽街道の宿泊
地としては最適な位置にある。このため、土田宿の土豪であり織田信長・信忠父子の止宿や徳川秀忠響導の由緒を
持つ藤井助十郎邸に、尾張藩主旅行時の宿泊施設を設置して「止善殿」と命名したのである。
 「止善殿」命名の由来は、尾張藩士松平君山の「止善殿記」が、「(徳川義直)しばしば此の駅に止まる、故に
亭館を築く、名を止善殿という、蓋し諸大学の語を取る也、世に謂う所の土田行殿是れ也」と記している。「止善
殿」の名称は儒教の四書のひとつ『大学』が説く三鋼領のうち「止至善」に由来すると述べ、「土田行殿(土田の
旅先の御殿)」として世に知られていたと伝えているのである。
 同書は、織田信長・信忠父子の止宿と徳川秀忠の響導の故をもって、「敬公(徳川義直)、林氏に行殿を守らし
め、駅亭長と為す」と、本陣成立の経緯も記している。本陣とは陣中にある武将の本営のことを意味し、転じて武
将の宿泊所も本陣と称するようになる。寛永10年(1633)に幕府役人が東海道などの特定宿駅の大名宿を
「本陣役」に指定した時が正式の本陣の出現だとも言うが、尾張藩主の行殿であった土田宿の止善殿も、その後は
土田宿本陣として幕末まで続いたのである。
 なお、止善殿があった土田宿本陣の場所は、現存する史料などからは確認することができない。土田宿は天保2
年(1831)の大火で下町から上町までの58軒が焼失し、止善殿や報恩寺も類焼している。現在の林本家の跡
は、白鬚神社参道が街道に突き当たる場所から街道を4、5軒西に進んだ中町にあるが、止善殿の跡と伝承される
門が残っているだけであり、規模や施設などについてはまったく不明である。 
 

大脇湊                                       (可児市史より)

 『尾濃村由緒留』所収の大脇湊の船問屋甚右衛門の由緒書は、天正2年に土田を退去した生駒氏にかわって兼山
城主森長可(ながよし)の家臣内田治右衛門が当地を支配し、家老の塚田庄左衛門が大脇湊に初めて鵜飼船を作ら
せたと伝え、塚田庄左衛門が甚右衛門に与えた鵜飼船上下往来証文を所持していると述べている。由緒書は大脇湊
を「木曽川筋初の湊」と述べ、その後、錦織湊と麻生湊が始まったと伝えている。
 『濃州徇行記』に、庄屋嘉吉の談話として「大脇は木曽川上にて湊の本なるよし、古へ可児合の瀬につかへ川上
へは舟を通ずる事あたわず、此処まで船を通じ上の黒瀬湊抔は後の事なり」と、大脇湊の由来がある。かつては、
可児川が木曽川に合流する可児合の瀬に妨げられて上流への船の遡航が困難であったために、大脇湊が木曽川上流
の終着点であったというのである。
 土田村は、木曽川舟運の拠点をひかえた街道筋に位置していたことから早くから人馬の往来があり、織田信忠や
徳川秀忠の場合のように大名たちが在地有力者の家に宿泊したり休息のために立ち寄ることは多かったものと思わ
れる。

土田のビードロ                                   (可児町史より)

 下総国(現千葉県)出身の石塚岩三郎は、長崎でのビードロ製法の技術を習得し、良好な硅石などを探査しなが
ら故郷へ向かって中山道を下り、鵜沼宿の某寺に宿をとり、その寺の住職にビードロの話を熱心にした。住職はそ
の熱心さにうたれ、近くの多治見・土岐方面では、陶器を大量に生産していることなどを話し、岩三郎が探してい
る硅石があるかもしれないと励ました。
 翌日から岩三郎の珪石探しが始まり、木曽川沿いに進めているうちに、良質の硅石を土田山の一角で発見し、土
田の渡りで念願のビードロづくりを始めた。時に文政2年(1819)11月で、これは日本でも早い時期にあた
る。
 土田で制作されたものは、現存、伝世されていないが、伝えではかんざし・杯等のようなものが作られたという。
ビードロかんざしは大変高価で貴重品扱いであったといい、特製は飾り部分に水玉があってその中に金箔などが入
れたものもあったという。
 土田のビードロ屋の存在は、領主でもある尾張藩公にも聞こえ、金魚鉢を納めることとなり、その材料費などの
金の工面に困った岩三郎は、土田村の庄屋村瀬吉右衛門に相談し、村入用を立替えてもらっている。史料には、箱
二つとあるので納めた金魚鉢は2個であったかと想像される。金魚鉢を納めた岩三郎は、その後、藩公の前で技術
公開を申し付けられ、御深井戸窯を築き、製法を御覧に供し、尾張藩お抱えとして本格的な細工場・炉などを築く
準備をしている最中に、幕末となって沙汰止みとなったという。
 岩三郎は、慶応3年(1867)4月に没し、土田報恩寺に葬られた。
 岩三郎は、子文左衛門の他に、尾張国丹羽郡西大海道(現一宮市)の谷半十郎と土田村の松本新平らにその技術
を伝授した。谷半十郎は帰郷し嘉永年間(1848から1854)にビードロ屋を郷里で開き、松本新平も明治3
年(1870)に名古屋の久屋町でビードロ屋を開いた。
 明治になって、ビードロ、ギヤマンが英語のガラスに呼びかえられ、広くガラスが一般語となった。また、ラン
プ、西洋建築などの流行とともに、ガラスの需要は高まり、それまでの年に数回の製造から、専業企業的なものと
変り、製造方法も、融剤が鉛からソーダ灰となり、燃料も石炭やコークスとなり、また、型も砥石から鋳鉄製金型
と変っていった。
 二代目である文左衛門は、片田舎にあってもそうした技術革新をとり入れ、明治18年には石炭を使用し、作業
場に8寸土管で高さ5、6間の煙突を立て本格的生産に取り組んだが、材料や燃料の仕入れ先も、製品の出荷先も、
ともに名古屋方面であって、荷車で往復するのに一泊二日がかりであるという不便さもあって、明治21年(18
88)名古屋へ移転した。
 土田でのビードロ・ガラスの製造は、文政2年から明治21年までの70年間で終わった。
 二代目の文左衛門の弟子となり修業をし独立した人々が、名古屋近辺でガラス工場を起していった。そうした中
に土田村出身の曾我作太郎もいて、明治41年(1908)に独立し、それが現在の曾我ガラスであり、本家本元
の石塚ガラスとともに、中部ガラス工業の双璧である。

土田の渡し                                     (可児市史より)

 現在の中濃大橋のやや上流にあった渡し場で、土田の下切から太田本町に渡っていた。昭和44年(1969)
に中濃大橋が架かる数年前までは運行していたという。渡河方式はワイヤーロープを渡した岡田式渡船で、土田で
はジャンジャンブネと呼ばれており、川合や今渡の渡しと違って人も自転車も有料であった。渡し賃は昭和36年
(1961)で一人10円、自転車15円であった。
 船頭さんは昭和30年代には2人で、美濃加茂市側に簡単な小屋があって、そこに待機していた。土田側には何
もないため、冬期の船待ちは吹きっさらしでとても寒く、二つ岩と呼ばれる岩の陰で待っていたという。渡りたい
人は「オーイ」と対岸に声をかけて呼んだ。
 昭和20から30年代にかけては、カヤバ工業株式会社の社員の通勤で賑わい、毎朝30人ほどの乗客があった
という。土田側からは美濃加茂への買い物や、太田本町に渡ってすぐのところに「前進座」という芝居小屋があっ
たので、そこで芝居をみるために利用された。渡(土田)のある人は、陽が落ちると運休となるため、船頭さんが
帰宅するのを見て、船に乗り込み川を往復したり、太田で遊んで来たり等、いたずらもしたという。
 昭和30年代後半になると交通事情も変化し、1日数人から十数人という利用状況になり、渡し場の維持も難し
くなっていった。可児では土田の堀井伝吉さんが最後の船頭という。

土田小学校                                     (可児町史より)

 土田小学校は、明治6年(1873)1月の創立以来、校下の変更・分離、他校との合併等もなく、土田地区の
小学校として現在に至る。創立当時は、会朋舎と称していた。
 土田小学校校舎は、明治10年(1877)から昭和32年(1957)までの80年間、現地区センター敷地にあり、
こうした史実を後世に伝えていくことを目的として、平成15年6月に土田歴史同好会の寄進により、「土田小学
校々舎跡の碑」が土田公民館(現地区センター)玄関左脇の植込み内に建立されている。

土田村役場庁舎                                   (可児町史より)

 土田村役場庁舎は、土田白鬚神社参道入口東の位置に明治35年に建てられたもので、長五間、梁三間の二階造
りであった。当時、建築費は600円で、庁舎を建築するにあたって村税の増税をしたという。可児町誕生により
土田支所となり昭和39年6月まで使用された。
 当時の庁舎玄関の屋根にあった鬼瓦は、今も土田地区センターに残っている。

白鬚神社                                 (可児町史・可児市史より)

 白鬚神社は、土田下切にあって、猿田彦大神・建御名方神・天照皇大神・伊弉諾命・天御蔭神の五座を祀る。
 平安時代(794から1192)、平将門の乱鎮定のために東征中の平貞盛が、夢の告げによって宮野(現土田
大脇)の地に白鬚神社を建てたとの伝承がある。のち永禄13年(1570)3月に土田城主生駒氏が現在地に移
して城の鬼門鎮護の神社にしたという。そのため現在は木曽川から離れているが、一般的には白鬚神社は川との関
係が深いとされ、この神社も大井戸渡し場の鎮護のために勧請されたのであろう。

<年間の御祭事>

  1月 1日    元旦祭
  1月11日    厄年厄除祈願祭 交通安全祈願祭
  1月15日    左義長祭(どんど) 入進学祈願祭
  2月25日    天満宮祭
  3月11日    祈年祭(お鍬祭)
  4月第一土曜日  試楽祭
  4月第一日曜日  例大祭(流鏑馬)
  5月 5日    月次祭
  6月 5日    月次祭
  7月31日    茅の輪祭(輪くぐり)
  8月 5日    月次祭
  9月 5日    月次祭
 10月 5日    月次祭
 11月の第二日曜日 七五三祭
 11月23日    新嘗祭
 12月25日    大祓祭

<流鏑馬祭り(市指定重要無形民俗文化財)>

 毎年4月の第一日曜日(元来は4月5日)に、中世色が色濃く残る白鬚神社大祭が行われる。
 大祭は「神輿渡御(みこしとぎょ)」の祭事と、北座・中座・南座から出す「流鏑馬(やぶさめ)」(現在は東
座・西座の二座制となっている)で成り立っている。
 神輿渡御の祭事は神官と楽当元・氏子総代で挙行される。楽当元は輪番制であり、雅楽を担当する。雅楽は横笛
2、篳篥(ひちりき)2、簫(しょう)1、太鼓1、鉦鼓(しょうこ)1 の7名で演奏し、以前は早くから練習し
て祭りに備えた(現在は楽当元以外の人にもお願いしている)。
 大祭当日(本楽)は、神輿が本殿から400メートル離れた鳥居横の御旅所まで行列を作って渡御する。この行
列には古態を留める格式が定められており、順番・服装・持物まで細かに定められている。さながら中世の行列の
ようである。
 御旅所に着くと楽当元が「越天楽(えてんらく)」を奏で、宮司によって神事が挙行される。この際、流鏑馬の
本乗りを行う騎手に正一位が授けられる。楽当元は同時に「武昌楽(ぶしょうらく)」を奏でる。
 流鏑馬は2月頃から準備が行われ、乗馬の練習が行われる。以前は、騎手となる者は一定の期間女人断ちをし、
食事・風呂の仕度も自分で行い、馬の世話もするしきたりであったが、現在は行われていない。
 大祭(本楽)当日は、朝から門出の仕度をし、馬当元の組の公民館で門出式を行う。その後、酒を酌み交わし、
行列を作って門出する。
 午後3時頃、神輿が御旅所から還御(かんぎょ)し、本殿で神事が終わると祭りもクライマックスを迎える。見
物客で一杯となった参道をまず「馬場見せ」が馬を駆る。先払いが触れ走るなか、いよいよ「本乗り」が弓をつが
え、参道を駆せながら、3つの的を射る(現在は矢を口にくわえ、手矢にて2つの的を射る)。これを各座3回繰
り返す。
 射た後の本乗りは日の丸の扇を仰ぎながら帰り、最後に戻るとき扇を参道脇の観客に投げる。
 本祭礼は雅楽の音と、荒々しい流鏑馬とが一体となる可児市を代表する祭礼であり、今後の継承も含めて大切に
伝えたい大祭である。

<輪くぐり祭り>

 茅の輪をくぐって無病息災を祈る夏越しの大祓えの行事は全国的に行われているもので、可児では土田の白鬚神
社の「輪くぐり祭り」が有名であり、毎年7月31日の夜におこなわれている。
 祭りの一週間程前に、氏子の男性は白、女性は赤の人形(ひとがた)をいただく。これに名前を書き、体の悪い
ところや願い事などを書いて、自分の体をなでるようにし、息を2回吹きかける。これはケガレを人形に乗りうつ
らせる所作で、その後人形は志とともに袋に入れ、祭礼の前日までに氏子総代まで出しておく。
 祭礼当日、氏子総代連中は木曽川の河原へ茅や竹をとりにいく者や境内の清掃をおこなう者などに別れて作業し、
拝殿の前には高さ2メートル程度の茅の輪が作られる。これは竹を芯として、茅や笹の葉を巻きつけたものであり、
拝殿の正面に向かって右側に設置される。また、茅の輪の横に設置された祭壇には、茅の束(3本束、5本束、7
本束をそれぞれ2本ずつ)と盥(たらい)、御幣などが置かれ、氏子から集められた人形もここに置かれる。
 輪くぐりの神事は、神官の祝詞の後、茅の3本束を両手に持って、盥の水を祭壇の御幣に3回かける。茅の束を
祭壇に戻した後、拝礼し、茅の輪をくぐり左側に外廻りをする。次に5本束を持ち、同様に盥の水をかけて拝礼し、
今度は茅の輪をくぐり右側に外廻りをする。最後は7本束を持ち、同じ動作の後、茅の輪を左側に外廻りをし、本
殿内で再び祝詞が奏上され、神事は終了する。
 その後、一般の参拝者も前記同様に輪くぐりをし、祓えをおこなう。祭礼が終わると、氏子のケガレをうつした
人形は木曽川に流し清められた(現在は神前で焼き清められる)。

<お鍬祭り>

 毎年3月11日におこなわれる祭礼で、その年の作物の実りが豊かであるように願う耕作に関連する行事である。
以前は夜の行事であったといわれるが、現在は昼間にとりおこなう。
 その特徴として、農耕の模倣をすることや、ミニチュアの鍬を奉納する点で市内に類例のない行事となっている。
 お鍬祭りは神社の氏子と、氏子総代16人の中から選ばれる奉仕者とでおこなわれる。社殿内での神事の際は神
官が祝詞をあげるが、その後のお鍬祭り最中には神官が祝詞をあげるのではなく、禰宜(ねぎ)役の奉仕者が独自
の祭文を読みあげる。お鍬祭りの奉仕者は農事の所作をする3名も含めて全員男性である。
 祭り当日の朝、生の桧を削ってお膳板と箸、お鍬が作られる。近年においては木曽川岸に流れついたサワラ(縦
に割れやすく適材とのこと)を使用することもあり、木曽川河畔の氏子があらかじめ採集しておくとのことである。
お鍬は、鍬の部分は3センチメートル×5センチメートル程度の大きさ、長さ20センチメートル程度の小型の鍬
のミニチュアで、複数つくり、稲穂と榊を結びつけて三宝に供える。稲穂は事前に神田で採取しておいたものを使
用するが、持ち廻り制であった神田を維持することが難しくなったため、現在は特定の家で収穫したものを使用し
ている。榊は昔はどこでも自生していたが、おおむね鳩吹山近辺で採ってきたものが使用される。
 また、お膳板にはオネリと呼ばれる赤飯を丸く握ったものがのせられる。これは食用ではなく供物として使用さ
れる。オネリをつくるのは氏子連中の仕事で、朝から米を蒸して、祭事に間に合わせるように複数つくる。以前は
祭りには女性は参加できなかったが、現在は部外者も含め誰でもこの神事を見学することができる。
 神事は昼過ぎから、本殿内で挙行される。神事は神官と氏子総代、お鍬祭りの奉仕者でおこなわれる。昔はその
年の白鬚神社大祭の馬当元、各座の氏子も昇殿したという。供物としてお神酒、オネリなどが神前に供えられる。
 本殿での神事が終ると、「お鍬祭り」神事が始まる。この神事は3人の奉仕者と禰宜役(神官役ともいう)の4
人によっておこなわれる。禰宜は氏子総代から選ばれた人が務める。本殿での神事後に奉仕者は白装束、禰宜役は
黄色い神官装束に着替える。神事は拝殿前の広場でおこなわれ、鍬おろし、田おこし、田かき(苗代かき)、シロ
スリ、種播き、田植え、ささら太鼓、鳥追いの所作が行われる。
 氏子は、祭礼がおわったあとオネリとお鍬を家に持ち帰り、しばらく各家の神棚に供える。その後、苗代づくり
のときに、田にお鍬を持っていき、焼き米とともに供えてその年の豊作を祈った。
 土田のお鍬祭りは、その所作や祭文から、田遊びの流れをくむ行事と考えられる。田植えの所作をおこなう田遊
びは、可児市域では現在土田白鬚神社に残るのみとなっている。

鳩吹山

  標高313.5メートルの鳩吹山には、頂上からの雄大なパノラマが自慢の遊歩道がある。登山口は大脇、カタ
クリ、真禅寺、西山、石原の5箇所。植物観察やバードウォッチングを楽しみながら山頂に達すると、眼下に木曽
川や濃尾平野、遠くは白山、日本アルプスの山々を望む大パノラマが広がっている。
 また、鳩吹山北斜面の可児川下流域自然公園では、春にはカタクリ、秋には紅葉が楽しめる。