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昭和時代

更新日:2014年1月16日

 大正15年(1926年)12月25日、大正天皇が崩御され元号は「昭和」となり、新しい時代が始まりました。昭和3年に京都御所で行われた昭和天皇の即位の大礼の時には、菅刈青年団は仮装行列をし、中切青年団はハリボテで作った鯛を荷車に乗せ、村中を廻ってお祝いしました。
 しかし、昭和6年の満州事変、昭和12年の日華事変と続き、日本は戦時体制へと傾いていきました。そして昭和16年、日本は連合軍に宣戦布告し、太平洋戦争へと突入します。資力の乏しい日本は戦局を乗り切ることができず、焦土と化します。
 そして昭和20年8月15日正午、ラジオから玉音放送が流れ敗戦が伝えられました。敗戦の傷跡は帷子地区にも色濃く残りましたが、やがて日本は奇跡の高度成長を遂げ経済大国となり、帷子地区も農村から住宅都市へと大きく変化を遂げていきました。
 昭和の時代、それは激動の時代でした。


戦時中の暮らしは…?


戦時中の様子

 昭和12年8月に起こった上海事変では、古瀬と石原から出征していたお二人が戦死されました。お二人は、岐阜県最初の戦死者となり、同年10月22日に村葬が帷子小学校で盛大に行われました。
 その後太平洋戦争へと突入し、昭和18年4月16日、米軍機による初の本土空襲があり、次々と各都市が爆撃されるようになりました。帷子地区も農村とはいえ、近隣の萱場工業(土田)、大日本紡績(犬山)、東洋紡績(犬山)が軍需工場に変わっていたために標的とされ、人々は空襲警報のたびに防空壕へ逃げ込み、警報の解除を待ちました。
 戦況が悪化すると、海軍神風特攻隊による特別攻撃などが行われ、陸軍でも特攻隊が編成されました。古瀬から出征して沖縄へ出撃した若者の遺書が今でも残されています。両親宛のその遺書には国のために戦うことは男子の本懐であること、両親の健康を祈ることが綴られています。
 また、戦時中は物資が不足し兵器を作るためにお寺の鐘や公園の銅像や家にある貴金属を国に提供しなければいけませんでした。帷子小学校に昭和12年に建てられた二宮金次郎の銅像も供出することになり、現在はセメントの像が立っています。
 戦争末期になると、連日の空襲で名古屋や岐阜の軍需工場が次々と爆撃の被害を受けたため、工場を地下に作ることになりました。土質が凝灰石(サバ土)で掘削しやすい古瀬にも作られることになり洞窟が幾つも掘られましたが、工場が完成する直前に終戦となりました。残された廃坑では、少しの間マッシュルームの栽培をしていましたが、その後ふさがれました。

戦後の復興

 昭和天皇の玉音放送によって、長い長い戦いが終わりました。それは、一億玉砕焦土抗戦に向けて緊張していた人々にとって、今までの生き方を大きく転換するスタートでもありました。
 帷子の戦死者は、満州事変では1名、日華事変では11名、太平洋戦争では82名と、合計100名近い尊い命が犠牲となり、昭和18年9月3日、帷子小学校内に忠霊塔が建てられました。
 戦争のために農耕地は荒廃し、海外からの復員兵や引揚者の増加で食料増産が一層必要となり、政府は占領軍の勧告に従って昭和21年10月、「自作農創設特別措置法」を成立させました。国が地主から農地を買い上げ小作人に売り自作農とし、耕作者の地位を安定させ農業生産力の発展と農村の民主化をはかりました。帷子では、この農地改革を行うのに約2年間で20回もの農地委員会を開催し、どうにか昭和23年度中にほとんどの農地の買収が終わりました。
 また、教育は終戦を境に、総司令部の指示のもとで大きな改革が行われました。学徒動員の解除、戦時教育令の廃止に続いて、9月中旬から授業が再開されました。教科書の中の「国家」や「戦争遂行」の色彩が強い部分を墨で塗りつぶして使っていました。高等科の男子生徒たちは、戦時中教練に使用した木製の銃剣をリヤカーに乗せ御嵩の警察に運ぶなど、軍国主義につながるものはすべて整理し消去されました。
 そして、昭和22年4月の「学校教育法」により、6・3制の義務教育がスタートして、帷子小学校に帷子中学校が併設されました。昭和28年4月には今渡中学校と西部中学校が合併し、同年10月今渡に新校舎が完成し蘇南中学校となり、各分校に学んでいた生徒が一緒に学ぶことになりました。
 そして、日本は短期間でめざましい高度成長を遂げ、帷子地区も昭和40年代から大規模な団地が次々と誕生し、戦争直後の荒廃した姿からは想像もつかなかったような住宅都市になっていきます。

伊勢湾台風

 昭和34年9月26日午後6時18分ころ、瞬間最大風速50メートル、風速25メートル以上、暴風域半径250キロメートルという最大級の台風が紀伊半島に上陸しました。伊勢湾台風と呼ばれるこの台風は、死者・行方不明者5,000人以上、負傷者39,000にのぼるという甚大な被害をもたらしました。
 帷子では、全壊8戸、半壊67戸があり、名鉄広見線も一時不通となりました。中切の白山神社は倒れてしまい、翌年3月に神明神社の境内に再建されました。
 薬王寺の屋根も3分の1が吹き飛んでしまい、再建には普通のものより大きな瓦を特注したため、薬王寺の山の木を売って資金としました。
 また、戦後は森林組合のこけ山に生える松茸を使って松茸狩の客寄せが盛んに行われていましたが、昭和30年頃からあまり生えなくなり、この伊勢湾台風で山林が荒れてからはほとんど商売ができなくなってしまいました。

鳩吹山火災

 昭和62年4月19日午後2時ころ、鳩吹山で山林火災が発生し、3日間燃え続けて約90ヘクタール(名古屋ドーム約18個分)を焼きました。
 消火活動には地元消防団をはじめ、美濃加茂市、御嵩町、兼山町も参加し、20日には自衛隊のヘリコプター4機が消火剤を散布しました。このとき、石原の住民や帷子婦人会、市内日赤団員の人達は、2日間炊き出しをして、おにぎりと飲料水を山中で消火活動をしている人々へ運びました。この日は徹夜で消火作業を行い、翌21日17時30分にようやく鎮火しました。
 そして、翌年1月に「鳩吹山を緑にする会」が発足し、その後6年間にドングリ、ヤマハンノキ、ヒノキなど1万本の植樹が行われ、緑の姿を取り戻しています。

団地の誕生

 昭和30年2月、今渡町、広見町、土田村、帷子村、春里村、平牧村、久々利村が合併して可児町になりました。町誕生時の人口は2万3千人余りでしたが、昭和40年代後半から各地で団地造成が始まると人口は一気に急増し、昭和54年には市制施行の必要条件である5万人を達成し、昭和57年4月1日、可児市となりました。
 可児市の中でも名古屋市に最も近い帷子地区は、ベッドタウンとして開発が進み、昭和45年ころから次々と団地が誕生し、10年余りで、若葉台、長坂、鳩吹台、緑、愛岐ケ丘、光陽台と6つの団地が誕生しました。一番新しい虹ケ丘は昭和62年から造成工事が始まり、当時1戸4千万円~5千万円という価格の住宅に何十件もの申込みがあり、購入者を入札で決めたということで評判となりました。