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明治時代

更新日:2014年1月16日

 明治元年、帷子地区には菅刈村、美濃田村、中切村、古瀬村、茗荷村、石原村がありました。明治7年には、美濃田村と中切村と古瀬村が合併して東帷子村に、茗荷村と石原村が合併して西帷子村になり、菅刈村と合わせて三ケ村時代が続きました。
 そして、明治22年に菅刈村、東帷子村、西帷子村が合併して「帷子村」が誕生しました。
 さて、このころはどんなできごとがあったのでしょうか・・・。


明治時代の遊びは…?


徴兵制と戦争

 明治6年、これまでの士族志願兵制が廃止され、国民皆兵の制が採用されました。国民皆兵といっても、「常備兵免役概則」があって、一家の主人、嗣子、独り子、養子などは兵役が免除されました。
 そして、明治22年に戦前の国民の義務の一つである国民皆兵制度が確立しました。
 帷子地区では、明治27年の日清戦争で3名、明治37年の日露戦争で11名の戦死者がありました。兵役に従軍されるその都度、小学生全員をはじめ、各種団体総員で濃尾国境(現在の菅刈と犬山市の境)まで見送りました。

消防連中の結成

 個人の手桶が唯一の消火道具であった時代から明治時代に入ると、可児郡域内でも消防の組織化が進められました。
 菅刈村では、明治22年5月16日、菅刈学校にて「消防連中」の結成式を行いました。村の16歳から40歳までの男子で構成し、その人数は約60名でした。その中に4名の長を置きました。長は毎年選挙で選び、その年16歳に達した者は加入、41歳になった者は引退することになっていました。同年菅刈村は、ほか2村と合併して帷子村となりましたが、この組織は存続されました。
 明治23年、名古屋にて腕用ポンプを27円60銭で購入しました。また、出火場所へ行かない者は消防連中から外し、科料金5銭を納めさせるとの罰則を設けました。

濃尾地震

 明治24年10月28日に発生した濃尾地震の被災状況は、郡役所から県庁に報告したものが「震災日誌」に残されています。
 その日誌によると、特に帷子・春里・姫治地区の被害が著しかったそうです。
「地震は、上下、水平動が同時に起こり、北南へ振動せしが十秒を経て大烈震となり、七秒で器械が壊れ測ること能わざる・・・」と、岐阜測候所の報告にあるように、この世の終わりかと思われるほどであったということです。
 帷子地区では、総戸数372戸の内、247戸までが全壊の被害を受け、石原の真禅寺、中切の東光寺、古瀬の福田寺が全壊し、中切にあった帷子小学校も倒壊しました。何日も余震が続いたので、人々は地盤の固い土地や竹薮の中にむしろを張り、藁を敷いて寝たそうです。
 このころ、ちょうど稲の収穫が行われ、稲架にかけて干してあった稲束が、地震により決壊した農業用のため池の水によって流されてしまいましたが、それぞれの家では稲の束ね方の違いで区別して拾い集めたそうです。

青年会

 明治中期、中切では青年補習教育機関として「正義同志会」が設立されました。
 当時小学校を卒業できる人は少なく、これらの青年に対して勉学の場を与えようというのが設立の主意でした。東光寺に夜間集まり、小学校の教科書を用いて、住職、小学校長、駐在所巡査が指導にあたりました。教えを受けたのは、15歳以上の人で年齢もまちまちでした。
 明治末期になると、村内各部落に「青年会」が結成され、どこの夜学も熱心に行われました。また、体育奨励事業として、相撲も盛んに行われていたようです。
 これに比べ、女子が団体活動をすることはまずありませんでした。女子の交流の場といえば、嫁入り前に習いに行った裁縫教室くらいでした。

道路・交通

 この時代、西帷子(石原)より愛知県丹羽郡栗栖村に至る道が新設されましたが、山坂が長いのであまり経済効果はありませんでした。尾張街道(飛騨街道、木曽街道)の土田から石原を通って善師野へ行く道が、生活道路として活用されました。
 また、中仙道の伏見新町から分岐して、前波~沓井~沢渡~坂戸~菅刈~善師野へ通じ、村の中央を東より西へ貫通する犬山街道は、重要な道路でした。
 明治22年より着手し、明治25年に開通しましたが、愛知県境の土壌が重粘土で、雨期・冬期などはぬかるんで大変な難路でした。
 明治14年には、西帷子村に人力車が5台ありましたが、一般庶民の乗物ではなく、結婚式などに利用したのみで、あとは役人や商人が多く利用しました。
 明治末期から昭和2年ころまでは、犬山~八百津・御嵩間の時間馬車「トテ馬車」が営業されていました。片道4~5時間を要し、坂戸が道程の中間で、馬を休ませ飼料が与えられました。停車所は決まっておらず、どこでも乗降できました。馭者と別当が銅製の角笛に似たラッパを吹きましたが、その音色が「トテー、トテー」と聞こえたので、トテ馬車と呼ばれていました。
 その後、馬車から鉄道へとその交通手段の移り変わりはめざましく、中期になって日本の鉄道史は一つの節目を迎えました。