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姫治の由来「三宮さまと姫之命」物語

更新日:2021年3月27日

序章
大国主之(おおくにぬしの)命(みこと)が因幡(いなば)の白(しろ)兎(うさぎ)を助け各地で、国造りを進めていたころの話です。
大国主之命の娘で、農耕・医療・織物に長けた下照姫之(したてるひめの)命(みこと)は、高天原(たかまがはら)から遣わされた天稚彦之(あめのわかひこの)命(みこと)と結婚し二人の娘を儲け美濃で国造りをされていました。
8年の間、高天原(たかまがはら)に戻らなかった罪で天稚彦之(あめのわかひこの)命(みこと)は大矢で討ち取られました。
その死が高天原に届くと、天稚彦之命の両親も悲しみ美濃の大矢田に下り、喪屋(もや)で弔(とむら)いをしていると、下照姫之命の兄の味耜高彦根之(あぢすきたかひこねの)命(みこと)も弔いにきました。
その兄が天稚彦之命に似ており、両親は「天稚彦が生きている」と喜び勇み高天原に戻りました。
死人に間違われた味耜高彦根之命は怒り、喪屋を藍(あい)見(み)川(がわ)に蹴り落としました。川に流された喪屋をこの地の民が拾い、川に流されないよう天王山に納め弔いました。のちにこの山を喪山(もやま)と呼ぶようなりました。

これを見て下照姫之命はまた民と手を取り合いこの地の国造りを進められました。
ふたりの娘も成長し、姉の御手洗姫之(みたらいひめの)命(みこと)をこの地に残し、下照姫之(したてるひめの)命(みこと)は妹の姫之(ひめの)命(みこと)とともに、信州に届く国造りに向かわれることになりました。

姫之命
木曽川に着くと夕方となり、一夜を過ごして川を渡ることとされました。
次の日早朝、荷物を持つお供達とともに木曽川を渡りました。
可児の地に入り川沿いの薮道を東に歩き始めると、白い兎が出てきました。
姫之命様が兎についていくと、藪の中に竹籠を背負い座る古老がいました。
古老が見上げると、靄(もや)に射す陽の中に美しい姫が立っておられました。
古老は思わず「お待ちしていましたお姫様」といって泣き出しました。
下照姫之命様と姫之命様が訳を聞くと、「仲間と筑紫・出雲・丹波などに住まいながら東国をめざして来ました。地の長や民に竹具作りや手ほどきをしながらこの地に着き数十年がたち、仲間もいなくなりました。私は各地の経験や古老を理由に人々の相談に乗るまでになりましたが、水害や凶作などの良い相談相手にならず困っております。ある夜夢で、この地を治める神の御子を待てとのお告げがありました。今日、いつものように薮に竹を取りにいくと、珍しい白兎が出てきましたので、追って来たらこの藪にたどり着き、疲れて座り込んでいました。」といいました。
お二人の姫様は、「この白兎は何かの縁、案内を」と申されました。
姫様達が霧漂う洞(香ケ洞)に着かれると、長く霧と雲で覆われていた空が開き日差しが下霧(下切)の周りを照らし霧はいつの間にか消えました。

古老は下照姫之命様のお名前のご威光を目の当りにしました。
雲間の青空が大きくなる様子を見上げた人々は空に向かう白く細い煙に気が付くと、煙の出る古老の住みかに寄ってきました。
集まった人々は古老から経緯を聞くと、美しく神々しい姫様達に手を合わせました。
姫様達は持ってきた干し米飯を湯戻しして少しずつ分け与えられました。
米ができないこの地の人々は美味しい飯に喜び、この米の作り方を教えてほしいと口々に申しました。
お二人の姫様は、この夜の満点の星をみながら、姫之命様とお供の一部がこの地に残り国造りを進めることを決められました。
下照姫之命様は、亡き天雅彦之命を偲び夫の両親や兄を想い読まれた「天(あめ)なるや 弟(おと)棚(たな)機(ばた)の頸(うな)ながせる 玉の御統(みすまる)みすまるに 孔(あな)玉(たま)は深谷二(みたにふた)渡(わた)らす 味耜高彦根之(あぢすきたかひこねの)神ぞ」--天の織姫の首飾りの連なりのように輝く天の川が両岸の星をまたいで輝き渡らしているのは味耜高彦根之(あぢすきたかひこねの)命(みこと)です--との歌を、天の川を見上げ、若い姫之命様に贈られ「父や母は、いつもあの2つの星から見守っている」と言われました。
下照姫之命様とお供が信濃に向かわれた後、白兎は長く山にいましたが、仲秋の満月を境に消えてしまいました。「月に戻ったのかな」といい白兎の縁に感謝し、人々は月に祈ったそうです。兎のいた場所を兎田とも呼ぶようになりました。
「もう何年も天気も悪く粟(あわ)や稗(ひえ)の実りが少ない」との話を聞かれた姫之命様は、この湿気(尻毛)の粟(あわ)田の水はけを良くするように細い溝を田にめぐらすと良いことや山裾に広がる稗(ひえ)田に流れ込む山水の沢に小さな堰(せき)と水を引く溝(みぞ)や畦(あぜ)を作り、田の水を加減すると良いことを
話されました。

言われたように溝を作ると弱っていた粟がしだいに元気になりました。

秋には、粟も稗も穂が垂れるほど実りました。
姫之命様は、この実りをもたらした田や自然の恵みに感謝をし、笹で作った斎(いみ)竹(だけ)を立て、真菰(まこも)で作った新菰(あらごも)を敷いた斎庭(ゆにわ)(神事の場所)で人々と共にお祈りをされました。

ここに真菰や神田の字名が残ります。
時に暦の神事を行い老若男女が集まり語らいをすることで、諍(いさか)いを無くし助け合えるようにされました。

何年か後には人々が望んだ米づくりも始まりました。
火傷や外傷をした人には、傷口を水で洗い、川辺のガマの花粉を塗りガマの穂を敷き、休ませました。
熱や腹痛などの病気の人がいれば、笹の葉を煎じた薬茶を処方されました。
弱気になった病人には、竹取の古老が作った折(おり)樽(たる)を捧げ快方を祈られました。
人々の困りごとの相手もされ、人々が平穏に暮らせるようにと、神と人を結ぶ青木の枝を御神木(ごしんぼく)として立てて、神様のご加護を願われました。

榊の名を持つ青木が地名として今も残っています。
姫之命様は、人々に親しまれこの地に住まわれ下切を中心とする姫庄と呼ばれた地域を治められました。

終章
下切の三宮神社には、姫之命が主神、左に母の下照姫之命、右に父の天稚彦之命を祀っています。
国造り神話の大国主之命の娘と孫娘にゆかりのあるこの地を「姫が治めた地」として姫治村と呼び、分村合併後には地区名を「姫治」としてその由来を継承しています。

平成2年に、姫治天文台を併設した姫治公民館が神代の時代に天の川や月の兎を見上げたと同じ場所に建設されたことは、深いご縁を感じます。
姫治公民館のロビー壁面には天の川と月を見上げる姫の大きなレリーフがあります。

古事記や日本書記の神話に遡り神代を想い、姫治のルーツを探る語り部を書き残し、地域の自慢となることを願います。

<参考> 

序章は美濃市各神社の伝承や「大矢田神蹟図考(おおやだがみせきずこう)」「古事記」「比売神社略記」に伝わります。
白兎は縁結びの神や耳が良く素早いことからスパイや使者を指すとの伝えもあります。
香ケ洞は、霧が漂う様を香に例え、姫之命の香(かぐわ)しさから地名になったのかもしれません。
下照姫之命の歌「天なるや・・」は古事記(日本国民伝説)や織姫伝説としても残ります。

(出典:「姫治の自慢と誇り」より)