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貴舩神社(貴船神社)【宮町】

更新日:2024年3月12日

名称の文字について

 現在の名称は「貴神社」としていますが、伝統的に正式な名称は「貴神社」です。1851年(嘉永4年)兵庫県赤穂藩(あこうはん)10代藩主森忠徳公の揮毫(きごう)による社額は「貴舩社」と書かれており、昭和48年神社庁発行の認定証はじめ神社内多くの表記も「舩」が使われています。その後、変更登記の折に「船」と記してしまったのが「貴船神社」となった発端と考えられます。現在「舩」は「船」の異体字で一般的には使われませんが、今でも「舩」の字体を用いている神社はあります。

貴船神社貴船神社

貴舩神社の創建

 はっきりと明記したものはありませんが、平安末期1127年(大治2年)、当時可児郡地方を支配していた豪族である土岐氏により創建され、山城国(やましろのくに)京都の貴船神社から勧請(かんじょう→分霊、分祀、分社)されました。兼山には、川湊があったことから木曽川の水運の安全を祈願し迎えられたと考えられています。当時は、湊の近くまで神社の敷地で、神社からは兼山湊が見下ろせたと思われます。

 1538年(天文7年)烏峰城を築城した斎藤大納言正義が厚く保護し、1598年(慶長3年)に当時の金山城主森忠政により再建され、その時の棟札(むなふだ)が現存しています。

 祭神は水を司る神の水波能売女神(みずはのめのかみ)です。

郷社(ごうしゃ)の指定

 明治3年、神社が国の管理下におかれ、貴舩神社は近隣五ヶ村、兼山、伏見、比衣、錦織、伊岐津志の郷社と格付けされていました。(他に無格社、村社、県社などがある)。毎年の祭礼には各村の氏子総代が参列していました。貴船神社の入口の階段上の標柱に郷社の文字がありますが、新憲法下、政教分離令発布の指導的立場にあった当時のGHQ(連合国軍総司令部)に気遣いコンクリートで文字が埋められています。日本中の神社に見られる歴史の跡です。現在の貴船神社は銀弊社に格付けされています。

祭礼

 昭和初期20年頃までは、兼山鎮守の神様として毎年10月18日に町をあげて神事と祭りの行事が行われていました。各町内の氏子総代と名士が貴舩神社まで行列し、神事に参列しました。魚屋町、本町、常盤町、盛住町の4町内は飾り鞍を乗せた神馬を神社まで引いて行きました。下町からは、山車(だんじり)が引かれ、笛太鼓で祭囃子を演奏しながら魚屋町までを往復し、宮町は獅子舞を出して全町内をめぐり、青年団が神輿(みこし)を担いで町中を練り歩き、全てが貴舩神社に集まりました。境内には、多くの露店が出て、兼山の住民と近隣からの参拝客で大賑わいでした。現在祭礼は、毎年10月第3日曜日に行われ、神事は継続されていますが、多くの行事は廃れています。

武者行列神事

      ↑秋祭り武者行列(平成時代)               ↑神事の様子

貴舩神社の文化財

 1595年(文禄4年)に城主森忠政が銘刀国光の太刀一振りを奉納し、現在は、兼山の戦国ミュージアムに展示されています。また、1598年(慶長3年)に森忠政が社殿その他を再建したという棟札(むなふだ)や1757年(宝暦7年)朱塗りの鳥居や1777年(安永6年)不浄除け塀があります。不浄除けとは、蕃塀(ばんぺい)、目隠し門などともよばれる拝殿の前に位置する短い塀の事で、正殿を直視できないようにするためや、不浄なものの進入を防ぐために造られたと言われています。共に約260年前に建造されたもので、このお宮で一番古い建造物です。そして、赤穂藩10代藩主森忠徳公揮毫の社額「貴舩社」が拝殿中正面にあり、朱塗りの鳥居の上にその書体で作られた社額が掲げられています。神社の横の大木、榧木(かやのき)がご神木で、可児市の指定文化財となっています。

兼山 加 消防組の歴史文化財

 1889年(明治22年)町制が施行される以前、他に先駆け明治11年に兼山 加 消防組が創設され、貴舩神社拝殿の中や外に、当時の消防組の人たちの集合写真が奉納されています。消防組創設を記念して組員面々が、長さ3mにも及ぶ絵画で描かれており、中には「ちょんまげ」の隊員の姿もあります。伝統ある兼山の 加 消防の歴史資料で、貴重な文化財の一つとして大切に保護していく必要があると思われます。

現在の社殿

 拝殿は、1879年(明治12年)に建てられ、本殿社塔は昭和初期に建造されたもので、拝殿の後ろにあります。本殿の後方には、昔、名鉄電車が走っており、昭和初期に線路を敷く工事の際に本社塔が壊れたため、再建されたということです。貴舩神社の隣には、京都伏見稲荷から勧請した貴船稲荷大明神があります。