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慈光山常照寺【常盤町】

更新日:2024年3月12日

常照寺と妙願寺

 常照寺は1583年(天正11年)土岐市高山の地に、妙向尼の父であり、蘭丸たちの祖父である林新右衛門常照の菩提を弔うために、林長兵衛為忠(森家の家老)により創建されました。林新右衛門常照の名前が寺の名となり、常照寺と名付けられました。本堂裏の高いところには、林新右衛門常照と妙向尼の墓石があります。
 現在の常照寺のある場所には、元々妙願寺がありました。1565年(永禄8年)に妙向尼が母妙願の菩提を弔うために創建しました。当時、
妙願寺は隣の西念寺の敷地も含めた大きな寺院でした。1600年(慶長5年)美濃金山城城主4代目森忠政公の信州川中島の転封と同時に妙願寺は同所に移転し、その後忠政公が岡山県津山に転封されたのと同時に、妙願寺も移転され現在に至っています。その跡地に現在の常照寺が移転し建立されました。

妙向尼・勝寿院妙向禅尼(しょうじゅいんみょうこうぜんに)

 慶長元年(1596年)8月2日、73歳の長寿を全うし、金山で病没しました。美濃金山城初代城主森可成の室(妻)であり、森蘭丸、坊丸、力丸たちの兄弟の母です。名を「えい」と言います。浄土真宗の熱心な信者であった妙向尼は、元亀元年(1570年)に始まった織田信長と石山本願寺(浄土真宗)との争い(石山戦争)の際に、信長の小姓であった蘭丸を通じて、助命嘆願をして和睦成立に努力し、本願寺の危機を救いました。当時女性が戦いに口を出し、織田信長に物申すことは命懸けの行為であった事と思われます。特に忠臣であり妙向尼の夫である森可成と長男の可隆を戦いで死なせている信長は、妙向尼には負い目があり、また妙向尼の気迫から、要求をのまざるを得なかったのではないかと察せられます。浄土真宗を目の敵にしたと言われている信長ですが、小姓の蘭丸は兜の前立に浄土真宗の名号である「南無阿弥陀仏」を象っています。信長の心境は、どうだったのでしょうか?

墓石

    左 妙向尼    右 林常照の墓石

森家悲話

 可成と妻妙向尼の間には、男子6人の子がいましたが、可成を含め6人が織田家に仕え亡くなっています。城主森可成47歳、長男可隆19歳共に元亀元年、浅井、朝倉連合を迎え撃ち近江宇佐山城坂本で討死。三男蘭丸17歳、坊丸16歳、力丸15歳は天正10年(1582年)本能寺の変で討死。

 次男の長可は、信長の命で川中島に転封されていましたが、本能寺の変の後、金山に帰り東濃を制覇し、織田信孝に服属しましたが、その後秀吉軍に属し、小牧長久手の戦いにおいて、27歳で討死しています。唯一残ったのは、六男の忠政(仙千代)でした。忠政も蘭丸たちと小姓として信長に仕えていましたが、幼かったので乱戦を免れており、秀吉から金山城主7万石に封ぜられ、以降信州川中島13万7500石城主、さらに美作(岡山)津山城18万6500石初代城主となり大大名になりました。信長、秀吉、家康時代を賢く生き、64歳で亡くなりました。不遇だった父や兄弟たちの分まで長生きをし、大成しました。

常照寺の寺宝

 妙向尼の「有髪と法体の画像」と、森蘭丸が愛用したと言われている「槍の穂先」が保存されています。

常照寺