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美濃金山城跡の発掘調査について

更新日:2021年5月18日

美濃金山城跡ドローン画像

 国指定史跡美濃金山城跡は、石垣・礎石建物・瓦の使用などに織田信長・豊臣秀吉の時代にあたる織豊系城郭の特徴が見られます。関ヶ原の合戦後、1601年頃に破城(城の一部を壊し、城の機能をなくすこと)されましたが、破城後ほとんど改変のない状態で約400年間保たれています。このような織豊系城郭の特徴が全て見られ、破城されたまま良好な状態で保存されている城郭は東海地方ではあまり類例がみられません。


 平成18年度から30年度にかけて、市教育委員会が美濃金山城跡の第7次におよぶ発掘調査を行いました。また、市によって令和元年度より第8・9次調査を実施しました。これまでの調査成果については、本ページ下部の添付ファイルをご覧ください。


「国指定史跡 美濃金山城跡」とは?

美濃金山城跡航空レーザ測量画像

 美濃金山城跡は北東から南西へ流れる木曽川の左岸、可児市兼山地内の「古城山」に立地します。城は『金山記全集大成』によると、1537年(天文6年)に斎藤道三の養子、斎藤大納言正義(妙春)によって築造され、その当時の美濃金山城は「烏峰城(うほうじょう)」と呼ばれていました。

1565年(永禄8年)には織田信長の東美濃侵攻に伴い、家臣の森可成(もりよしなり)が城主となり、金山城と名を改めます。その後は子の 長可(ながよし)、乱丸(らんまる)、忠政(ただまさ)と森氏が35年間にわたり、金山城の城主となりました。1600年(慶長5年)に忠政が川中島(現長野県長野市)に転封されると犬山城主石川光吉領となり、1601年頃(慶長6年頃)には犬山城主小笠原吉次によって金山城は破却されます。

金山はその後、尾張藩領となり、名称も「兼山」と変わり木曽川の川湊として栄えました。

その後、昭和42年に岐阜県史跡に指定、平成25年には市内で2番目の国史跡となりました。


美濃金山城跡年表

(『兼山町史』・『史蹟 美濃金山城趾』より作成)

1537年
(天文6年)

斎藤大納言正義(妙春)が烏峰城を築城

1548年
(天文17年)

久々利城主土岐三河守悪五郎によって斎藤大納言が討たれ、土岐十郎左衛門が留守代となる。

1565年
(永禄8年)

信長の東濃攻略に際し、烏峰城を奪取。森可成に烏峰城が与えられ、金山城と名を変える。

1570年
(元亀元年)

浅井・朝倉攻めの際に可成が戦死し、13歳の森長可が金山城主となる。森忠政出生。

1582年
(天正10年)

長可が信濃川中島に転封されると長可の弟である乱丸が「金山」の領主となる。

1584年
(天正12年)

森長可が小牧・長久手の戦いにおいて戦死したため、森忠政が城主となる。

1600年
(慶長5年)

忠政が信濃川中島に転封となり、犬山城主石川光吉領となる。同年の関ヶ原の合戦後、犬山城番となった松平忠頼が在番となる。

1601年頃
(慶長6年頃)

金山城は犬山城主小笠原吉次によって破却される。


添付ファイル

第1次発掘調査報告(pdf : 2596KB)

第2次発掘調査報告(pdf : 1557KB)

第3次発掘調査報告(pdf : 869KB)

第4次発掘調査報告(pdf : 680KB)

第5次発掘調査報告(pdf : 680KB)

第6次から第9次までの発掘調査報告(pdf 22883KB)