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美濃金山城跡の発掘調査報告

更新日:2013年7月3日

  国指定史跡美濃金山城跡は、石垣・礎石建物・瓦の使用などに織田信長・豊臣秀吉の時代にあたる織豊系城郭の特徴が見られます。関ヶ原の合戦後、1601年に破城(城の一部を壊し、城の機能をなくすこと)されましたが、破城後ほとんど改変のない状態で約400年間保たれています。このような織豊系城郭の特徴が全て見られ、破城されたまま良好な状態で保存されている城郭は東海地方ではあまり類例がみられません。


 教育委員会では、平成18年度から22年度にかけて美濃金山城跡の発掘調査を行いました。調査成果については、第1次から第5次までの発掘調査成果報告の添付ファイルをご覧ください。

国指定史跡 美濃金山城跡とは?

金山城跡は北東から南西へ流れる木曽川の左岸、可児市兼山地内の「古城山」に立地します。城は『金山記全集大成』によると、1537年(天文6)に斎藤道三の養子、斎藤正義(妙春)によって築造されました。その当時の金山城は()(ほう)(じょう)と呼ばれていました。

1565年(永禄8)には森可成(織田信長家臣)が城主となり、金山城と名を改めます。その後は嫡子長可(ながよし)(らん)(まる)(ただ)(まさ)と森氏が35年間にわたり、金山城の城主となりました。1600年(慶長5)に忠政が川中島に転封されると犬山城主石川光吉領となり、1601年には犬山城主小笠原吉次によって金山城は破却されます。

兼山はその後、尾張藩領となり、木曽川の川湊として栄えました。

昭和42年に岐阜県史跡に指定されています。


金山城跡年表(『兼山町史』『史蹟 美濃金山城趾』より作成)
1537
(天文6)

斎藤大納言(妙春)が烏峰城を築城

1548
(天文17)

久々利城主土岐三河守悪五郎によって斎藤大納言が討たれ、土岐十郎左衛門が留守代となる。

1565
(永禄8)

信長の東濃攻略に際し、烏峰城を奪取。森可成に烏峰城が与えられ、金山城と名を変える。

1570
(元亀元)

浅井・朝倉攻めの際に可成が戦死し、13歳の森長可が金山城主となる。森忠政出生。

1582
(天正10)

長可が信濃川中島に転封されると長可の弟である蘭(乱)丸が「金山」の領主となる。

1584
(天正12)

森長可が小牧・長久手の戦において戦死したため、森忠政が城主となる。

1600
(慶長5)

忠政が信濃川中島に転封となり、犬山城主石川光吉領となる。同年の関ヶ原の合戦後、一時犬山城番となった松平忠頼が在番となる。

1601
(慶長6)

金山城は犬山城主小笠原吉次によって破却される。

  • 本丸のようす
  • 第五次発掘調査の伝左近屋敷石垣

添付ファイル