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大正時代

更新日:2014年1月16日

 1912年7月、大正天皇が即位し、記念行事が各地で行われました。帷子では、昼間は大八車に花を飾って村中をまわり、夜は提灯行列で練り歩くなど、村の人達は仕事を休みこぞって祝賀の行事に参加しました。小学校では、記念大運動会が行われ、この日の賞品は例年より沢山出ました。
 時代は大正時代へと移り、日本も国際的に近代国家として認められるようになり、人々の生活は豊かになりました。様々な特色ある文化も生まれ、世の中は「大正ロマン」の花が開きました。
 帷子地区にも電気がひかれ、名古屋鉄道が開通し、カフェーが登場するなど、生活が大きく様変わりを始めた時代です。


大正時代のおやつは…?

関東大震災

 大正12年9月1日、東京を中心に関東大震災が発生しました。幸い帷子は被害がありませんでしたが、被災地への寄付金が徴収されることになりました。割り当ては、岐阜県下1戸につき1円で、帷子村としては、半額の50銭を平等割として、残りの50銭は県税賦課に応じて割り当てました。
 しかし、菅刈地区の賦課法は議会で討議した結果、30銭を平等割にして、残り70銭を収入に応じて賦課しました。金額は、3円94銭~34銭のひらきがあったそうです。 ちなみに大正10年の日本酒(2級)1升の値段が1円20銭でした。

公設消防組の設置

 大正12年1月、帷子村公設消防組が設置されました。公設消防組の組員は84名で、各字の割当人員は、中切18人、古瀬17人、美濃田4人、菅刈19人、石原15人、茗荷11人でした。
 消防器具は、大正11年12月に最新式ピストン軽便1号ポンプ1台を購入し、格納庫を菅刈に建設しました。また、火の見やぐらも設置されました。

婦人会の結成

 明治中頃より、女性活動家の提唱によって、国内には様々な婦人団体が結成されるようになりました。これに刺激され、大正9年4月に、会員の知徳を増進する目的で「帷子婦人会」が設立されました。
 大正13年に設立された中切婦人会では、総会にて「会員は木綿を着て絹を着用しない」など、質素倹約の通達を受けました。会の内容は、講演の他、琵琶や浪花節などの余興があり、役員の世話で昼食会や夜食が用意されました。この日ばかりは、家族にも気兼ねなく、夜9時頃まで歓談して過ごしました。

名鉄が開通

 大正14年4月24日、名古屋鉄道が開通しました。犬山口~今渡間を所要時間25分で走り、運賃は30銭でした。運転は、1時間に1~2本でした。
 駅は、犬山口、富岡前、善師野、愛岐、帷子、春里、ライン遊園、今渡でした。帷子地区の線路には愛岐トンネルを掘った土を埋めました。この工事には帷子の多くの人が工夫として働きました。

村芝居

 大正10年頃、芝居好きな人(中切7名、菅刈3名)によって村芝居が始まりました。土田(井の鼻)、菅刈(白髭神社)、薬王寺などで3日間にわたり外題を替えて芝居が行われました。
 関から師匠が来て、何ヶ月も前から練習を重ね、芝居の公演中は役者の家に泊まりました。芝居の始まる2、3日前には、役者はもちろん、村中の人々が稲架竹(はざたけ)、たち臼、むしろなどを持ち寄って、芝居小屋の骨組みを作り、桟敷を作って小屋掛けしました。観客は、それぞれひいきの役者に、祝儀やお酒、食べ物を届けました。
 素人芝居のほかに薬王寺では、芝居好きな人が勧進元となって旅回り一座をよび、興業芝居も行われました。本堂の壁には、今も当時奉納された芝居番付が何枚も掲げてあります。

カフェーの登場

 日本で最初のコーヒー店は、明治21年4月6日、東京上野に開店した「可否茶館(コーヒーかん)」です。コーヒー1杯が1銭5厘、ミルク入りが1杯2銭と、かけそば1杯と同じくらいの値段でした。続いて出来たのは神戸で、その後各地に登場しましたが、長続きはしませんでした。やがて、明治40年代にカフェーという名前に変わりました。
 中切の岸商店は、当時としては多角経営で、薬局、八百屋、料理屋のほかにカフェーも開業していました。遊ぶ場所のないころで、店は大変評判になったそうですが、若い人達の勤労意欲が失われるのではないかという問題があり、短期間でカフェーは閉店してしまいました。