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戦時中の生活

更新日:2013年12月4日
  • 配給制
    昭和15年に砂糖とマッチが切符制となったのを皮切りに、翌年には生活必需物資統制令が公布され、米の配給制度が決まりました。一般青年男子は、1日2合3勺(茶碗4、5杯)の割り当てでした。その後、醤油、味噌、清酒、石鹸、豆炭、玉子、菓子なども配給制となりました。
    帷子には多くの疎開者などが移入してきており、農村であっても食糧事情は決して良いものではありませんでした。
  • ぜいたくは敵
    昭和19年~20年ころになると、あらゆる資源は軍需用となり、国民は使えるものはすべて再利用するなどして窮乏をしのぎました。服装は、実用品として木綿が買えないため、手持の着物を防空服や子ども服に作り替えました。スプーンや靴、文具、運道具まで、瀬戸物や竹を使った代用品になりました。
  • 千人針
    千人針は、千人の女性の手で赤い木綿糸を結んだ玉をさらしに縫いつけたものです。それで作った胴巻を肌につければ、弾丸が避けられるというお守りでした。
    死線(四銭)や苦戦(九銭)を越えるという意味で五銭硬貨や十銭硬貨が縫い付けられました。一針一針心をこめて出来上がったものを慰問袋に入れて出征兵に送りました。
  • もらい風呂
    戦時中はもちろん、昭和30年ころまでは毎日風呂をわかす家が少なかったので、3、4軒が1軒の家にお風呂を借りに行く風習がありました。夕方、風呂をわかした家の子どもが近所にふれて歩くと、夕食をすませた家族がその家に集まってきます。風呂場に近い部屋に火鉢が置かれ、当家の主人が切干芋やかき餅を出してサービスし、皆は世間話をしながら風呂の順番を待っていました。
    大勢の人が交替で入り、また残り湯で洗濯もするので、できるだけお湯を汚さないよう、無駄に使わないよう、子どももしっかりしつけられていました。