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久々利城跡

更新日:2018年12月18日

 久々利城は土岐三河守悪五郎が築城したというが、築城年代は不詳である。
 位置は今の久々利地区センターの北側 標高236メートルの山を背にし、南に張り出した急峻な山を堀切をもって遮断し構築している。遺構は山腹より数段曲輪を断続的に設け、土塁・空堀などで要所を備えた室町期の典型的な中世城郭で、その城郭構造は市域に所在する中世城館跡では最大で、現在もよくその遺構が残され貴重である。
 土岐三河守悪五郎は南北朝の争乱の時に戦死(1352年)した土岐悪五郎康貞が初代とし、代々土岐三河守悪五郎と世襲し、康貞の子の行春が久々利太郎行春と称して久々利氏が始まり2百余年続く。
 戦国時代 織田信長の家臣 森可成(もりよしなり)が尾張国から永禄8年(1565年)に金山城(烏峰城を改称)に入城し、可成の子 二代目城主長可(ながよし)の策略により天正11年(1583年)に久々利頼興三河守が討たれ、長可の兵馬の急襲により久々利城は落城した。

[久々利城跡概要図]
久々利城跡概要図

曲輪(くるわ)

城の建物や人の集まれる平らな場所を曲輪といいます。

堀切(ほりきり)

尾根を断ち切るように設けられた堀のことで、尾根伝いに敵が侵入するのを防ぐ仕掛けです。

 

竪堀(たてぼり)

等高線に対して直交して掘られた溝で、敵が斜面を横に移動しにくくするために造られました。

 

横矢(よこや)

敵を横側から攻撃することを横矢といい、そのための土塁の折れ曲がりや曲輪の張り出しなどの仕掛けを横矢掛りといいます。

土橋(どばし)

堀を渡り、曲輪をつなぐために設けられた狭い土の橋です。

切岸(きりきし)

敵の侵入を阻むため、曲輪の周辺斜面を断崖のように切り盛りした造作を切岸といいます。斜面を加工するだけで防衛機能を高めることから山城の最も基本的な仕掛けです。

 

虎口(こぐち)

城や各曲輪への出入り口のことを虎口といい、敵の攻撃を真っ先に受けることから、最も厳重に防御されました。久々利城の虎口は、直線的な侵入を防ぐため、侵入路が折れ曲がるようにできた枡形虎口となっています。

[久々利城跡周辺の航空写真]
久々利城跡周辺の航空写真